こんにちは、しようじさん 写真どうぞお使い下さい。 山川小学校の歴史と歴代校長先生の一覧追加送信します。
山川小学校が 街のなかにあった頃の山川の街全体写真を配信します。 山川小学校は、昭和44に山の上の 養蚕試験場跡地に移転している。
山川の街の写真がうまく配信されませんでしたので、PCから再送します。
ありがとうございます。 34年小学校卒業です。 懐かしい写真はみんな喜ぶと思います。
<義広さんの上の写真2について> このハイアングルな写真、どこから撮ったのでし ょう。道を隔てた消防署の屋根、火の見櫓 ?
こんな立派な門柱があったのですか。小さかった から上を仰いで見ることはなかった。校舎は明治 34年(1901年)に建設されたようですので、私達が 入学した頃は60年経っていたのです。
門の前が未舗装だ。当然ですね、前のバス通りも 舗装されたのはずっと後だし。
道路の補修は町民総出でやっていた。学校の建設 も父兄らの力で少しずつ整えられていったのでし ょう。図書館前の池も私のオヤジ等がかり出され ていましたから。
今は、「税金納めてんだから、行政がやるのは当 たり前だろう」と皆思ってます。それぞれが自分 の領域のことしか考えられなくなってしまった。
「いや! 俺らは考えてるぞ」と、今朝のサンデー モーニングの年老いた論客達は相変わらず口角喧 (かまびす)しくしていますが、
「言うは易く、行うは難し」 「破壊は一瞬、建設は死闘」
山川小学校143年の星霜を築きあげた先輩方に感 謝します。
143年の歴史を重ねた山川小学校は他とは別格で した。それは校歌を比べれば一目瞭然です。山小 の校歌は強烈なメッセージが込められている。校 歌の後に私の意訳を添えました。
(1) ああ薩南のよき港 鶴の翼をひろげたる 姿も清くもろこしや 南の島に通いけん 今に入船出る船の 歌に明けゆく尊さよ ‥‥‥‥‥‥‥‥‥ <意訳> ああ何と恵まれたことか 鶴が舞う美しき港は 異国に羽ばたく舟船(しゅうせん)で 我が世の春を謳歌していた
(2) ここみんなみの風香る 世の人も知る山川の 港の岸に榕樹生い 瓦並びし中に立つ わが学び舎の龍眼の 木陰に学ぶ楽しさよ ‥‥‥‥‥‥‥‥‥ <意訳> その昔日本のどこよりも その名は世界に知られていた 別名「幸せを呼ぶ木」と呼ばれる ガジョマルが生い茂り 瓦葺きの裕福な町並みの中にその学舎はあり 竜眼の木陰はオアシスとなっている
この校歌の真骨頂は次の3番です。(つづく)
(3) いざもろともに身をきたえ 智徳をみがき日の本の 高き理想を仰ぎつつ 向学の念もえたたせ 昔火をふきし山川の わが学びやの名をあげん ‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥ <意訳> さあ身を鍛え勉学に励もう 世のため人のため我が学び舎のために 我らは奮起せん
この3番はまさに身震いします。兎角(とかく)仲 良しこよしの言葉の羅列になりがちな小学校校歌 で、山小校歌は別格でした。薩摩隼人の真骨頂こ こに、という感じです。
明治維新までは「世の為人の為に義を言い合う」 風潮だった鹿児島の若者たちが、がために西南戦 争で多くの命を失ってしまった。結果「義を言う な」と義を封印することになった。
しかし、山川小学校の校歌ができたのは、大正時 代だと思われます。「義は封印すべきではない」 と、この校歌の作者は考えていたようです。
その作者の名前は新屋敷幸繁さん。ひょっとした ら同級生の新屋敷君のおじいさまかも知れません。 そして新屋敷くんの名前は「義人」だったような。
「義の人たれ」と。
【写真3】 このグラフは横軸が大胆なスケールになっていま して解析しづらいので、ノーマルに変えてみまし た。
山川の明治以降の急激な人口増加は、平均的な日 本の流れと同じです。幕府からの解放と産業革命 がもたらした人口増加です。でも、国の富国強兵 策は急激に増えた国民を食わせてはいけず、苛酷 な海外移民策を取る。
山川の近くでは頴娃からの移民が多かったようで す。でも、福元地区からはそんな話は聞かない。 山川は極めて裕福だったのです。
昭和9年、毎日新聞山川通信部の主催で港祭りが 開催される。全国紙の通信部が山川にあったので す。今日では読売の通信部が指宿にあるだけです が、鰹漁で賑わう山川の絶頂期でした。(つづく)
山小のピークは昭和35年の985人程、我々が入学 した年です。問題はその後です。
戦後の第一次ベビーブームの後、日本では第二次 ベビーブームが訪れるのですが、山川ではそれが 全く無く、よけん坂を転げ落ちるように少子化に なってしまった。
それは山川だけの問題ではなく全国の過疎地に共 通することですが、山川においては下げ止まり状 態になっています。どうやら廃村になる心配はな さそうです。この状態は山川が素朴に活き活きし ていた時代、
「明治維新の頃に戻っただけ」
と、思いたいのですが、「明治の頃は学校に行っ てない子もいただろうからこの数字は比較になら ないのでは」とも思われます。その辺りを検証し てみます。(つづく)
山川の児童数今と昔一緒?
まず、現在の学校は6・3・3制ですが、明治の始 めはどうだったのでしょう。
明治6年に始まる日本の学校制度で小学校は8年制 とされていました。前期4年を下等小学校、後期4 年を上等小学校と呼んでいます。今日の低学年、 高学年の呼び方の元になったのかもしれません。
明治19年に下等小学校のみが義務教育とされ、そ の後すぐに上等小学校は分離され高等小学校と呼 ばれるようになる。
○明治6年、最初の小学校は4・4の8年制 ○明治19年、前半の4年を義務教育化へ ○明治25年、4・4を分離 ○明治35年、4・4を統合、6年制への布石 ○明治41年、暫時6年制へ
明治19年に、義務教育制度が始まるのですが、そ れによる急激な児童数の増加は山川では見られま せん。鹿児島では薩摩藩時代からの教育熱で就学 率はかなり高かったようです。
ですから、山川小学校の最初の児童数も義務教育 的で、ほぼ今日と同じ程度だったと思われます。
|